新年の抱負とドイツでのオーディションを振り返って。

明けましておめでとうございます。
一年の中のイヴェントで一番好きなお正月。
私の中では唯一ダラダラしても食べ過ぎても罪悪感を感じにくいとても都合の良い休暇です。
ブログを始めてから毎年年末にその年を振り返っていましたが、今年は年始に新年の抱負と時間が沢山あるので(本当は練習をした方が良いのですが)ドイツでの事を振り返って書こうと思います。
私は帰国をしもう6年が経ちました。もう少しでヨーロッパに滞在していた時間と同じくらい日本での暮らしが長くなりました。
当時ウィーンでの学業が終わった後半年間ビザを延ばしこのままヨーロッパでオーディションを受ける事になり、オーストリアは大きいオーケストラしか無いから(ウィーンフィル、ウィーンシンフォニカ、ORFオーケストラetc...) 一つの町に一つオーケストラがあり様々なランクのオーケストラが混在するドイツへ思い切って引っ越しをしました。
ウィーンから住まいも決めてビザもウィーンにあるドイツ大使館で取得しドイツはデュッセルドルフに行きました。ウィーンに6年間住んだ私にとっては経済都市でもありモダンなデュッセルドルフは同じドイツ語圏でもウィーンよりもっともっと外国に感じました。というより田舎から上京した感じ、がしっくり来るかも知れません。
アパートに入居して数日でヴァイオリンの練習音が気になると隣人に言われてしまい、ならば練習出来る場所を町で探そうと探してみるものの音楽大学の練習室は学生でも順番待ち、一般人には貸し出しておらず、音楽の町という訳では無いデュッセルドルフにピアノスタジオはなく、私が見つけた練習場所は町にある図書館の防音室でした。ピアノはありませんがヴァイオリンの一人練習なら問題ないので引っ越して数週間は図書館に通ったりしました。丁度図書館でオーディション情報誌も読めたので、練習合間に履歴書を書いたりしてました。それと同時にやはり練習が出来ない住まいはとてもストレスがあったので引っ越し先を探す事にしました。ドイツは当時のウィーンとは違い音出しマンションなんて言ったら家賃が本当に高く、そんな時にありがたいご縁でデュッセルドルフから電車で一時間の場所クレーフェルドという町で水泳の先生そして水球の日本代表選手の女の子3人でWGする事になりました。私はとてもマイペースな性格で共同生活や集団行動が苦手なのでウィーンでも誰かと一緒に住むなんて頭にも無かったですが、彼女たちは自分たちの目標や仕事に忙しく応援こそしてくれますが干渉は一切無し、本当に救われました。体育会系に一人芸術家と今思えば貴重な共同生活でした。
クレーフェルドを拠点にオーディション生活がスタートしましたが、ドイツのオーケストラはオーディションに行くにはオーケストラからの招待状が無いと受けれず最初の3カ月は何通履歴書を書き送ったか分かりませんが全く招待状が貰えず途方に暮れウィーンに居る先生たちに相談すると、推薦書を書いてあげるからと先生たちが何通も推薦書を書いてくれてそれと共に出したオーケストラから少しずつオーディションの招待状が来るようになりました。3カ月間の間にドイツはゲッティンゲン、バーデンバーデン、デュッセルドルフ、コブレンツ、ゲヴァントハウスのアカデミー、スイスのジュネーブはロマンド管弦楽団を受けました。 一箇所のみ補欠合格し、他は全て駄目で補欠合格したゲヴァントハウスのアカデミーも辞退する人が居なかった為声がかからずでした。余談ですがオーディションへ向かう途中の電車がストライキし止まってしまい車内にはオーディションへ向かうであろう楽器を持った人が2人居て、その駅から一緒にタクシーで会場へ向かったのも今思えば良い思い出です。確か最後に受けたコブレンツは真夏で特に猛暑の年で荷物と楽器を背負いホテルの入り口と思った場所からは入れずぐるっと回るには広大過ぎて、ホテルの建物は見えていたのでフェンス下から荷物をホテルサイドへ投げ入れ、自分は楽器を背負い高いフェンスをよじ登りました。毎回節約旅だったので無人のホテルに滞在し受付画面の中のヒツジのフロントマンを見て もう日本へ帰ろう、自分の中で一旦区切りが付いた瞬間でした。
帰国し数年後にご縁あって今行かせて頂いているオーケストラに出会いました。
今はオーケストラはもちろん、この数年はピアノと弾く事も大好きになりました。
何より大事なのは私が演奏を心から楽しむ事。それが出来てようやく聴いて下さる皆さまへ音楽が届けられるのかなと思います。
今年は年明けから1/14 チャリティーコンサート(完売)、1/21 ニューイヤーコンサート(予定より10席プラスして満席)、1/22 オーケストラのニューイヤーコンサートと楽しみな公演があります。

会場でお会い出来るのを楽しみにしております。
今年も宜しくお願い致します。
大塚 野乃子